ミラノ〜サンレモの歴史
1907年に初めて開催され、113回目となる『ミラノ〜サンレモ 2022』。100年以上もの歴史を持つレースだ。
初開催当時、「町から町へ」というコンセプトは、ロードレースの大会において主要なものだった。ミラノの町からサンレモの町へ行く本大会も、その流行りの中で生まれたレース。
プロとしての初開催は1907年だが、その前にアマチュア選手による大会が1906年に開催されている。サンレモのスポーツ協会「Unione Sportiva Sanremese」が主催したものだ。
そして翌年、イタリアスポーツ誌の「Gazzetta dello Sport」が公式大会としてプロ選手によるレースを開催。本誌は1910年から開催されているグランツール『ジロ・デ・イタリア』の主催者も勤めていた。
95%以上がリタイア?過酷を極めた1910年大会
4年目となった1910年開催は、『ミラノ〜サンレモ』史上、最も過酷なレースとして知られている。
今でこそ自転車がハイテクに発展し、時速50km以上を維持できたり、路面からの振動を吸収してくれたり。しかし、100年以上前の自転車はそうはいかない。にも関わらず、レース距離は現在と変わらず300kmにも及んでいた。
従って、1910年開催のスタートは、日の出前の暗い時間帯。63人がミラノを出発した。
さらに、「春の訪れの象徴」とは言うものの、当日のスタート時は気温が低く、天気も雨。
そして70km地点付近の「Tortona(トルトーナ)」で雨は雹へと変わり、140km地点付近の「Passo del Turchino(パッソ・デル・トルキーノ)」で雪が降り出したのだ。
当時、先頭を独走していたVan Houwaertは、スキーヤーが道路を滑っているのを発見したそうだ。そして雪の中のダウンヒルでVan Houwaertはとうとうリタイヤを決意。寒さのあまり、近くの家屋に避難した。
そしてその後ろを走っていたEugène Christopheも、寒さのあまり沿道のホテルへ避難。しかし、ホテルで休憩していたところ、窓の外を4人の選手が通り過ぎ、彼らと共闘するためにレースを再開した。
そして無事Eugène Christopheがそのまま1着でフィニッシュ。タイムはなんと、12時間24分。2位と3位の選手も約1時間遅れてフィニッシュしている。
結果、ミラノを出発した63人の内、フィニッシュしたのは4人のみ。4年目にして、その後100年以上語り継がれる最も過酷なレースとなった。